カニ料理専門店が寺院で「かに供養」を行う──この一連の行為を見て、「いい加減にせえよ!」「矛盾してるのでは?」という疑問を抱く方も少なくありません。とはいえ、その背景には伝統・感謝・商売と倫理の重なりが隠れています。今回は、こうした儀式がなぜ行われるのか、どのような意味を持つのかを整理します。
そもそも「かに供養」とは何か?
例として、東海地方での儀式では、カニ漁の解禁前にカニを並べて読経・焼香を行い、「自然の恵みに感謝」「商売繁盛」を祈願しています。([参照]({“url”:”https://www.nagoyatv.com/news/?id=027097″}))
また、北海道のカニ料理店が全国店舗で毎年実施しており、「かにの命に感謝/商売の成功を願う」という二重の意図が読み取れます。([参照]({“url”:”https://www.uhb.jp/news/single.html?id=46570″}))
なぜ商売をする側が“供養”をするのか?
一見すると「売って儲けておいて今さら供養?」という疑問が出るのも無理はありません。しかし、日本には「命を頂く」「自然の恵みに感謝する」という文化的・宗教的な価値観があります。
例えば、ある地域ではカニを“石をかき集める”習性から、商売繁盛・お金に縁があるとされる信仰もありました。([参照]({“url”:”https://www.kankou.natori.miyagi.jp/kankou/3840″}))
矛盾に見えるが、それだけでは語れない事情
販売・消費を生業とする以上、生きるために“獲る・売る”は現実的な前提です。しかし、そこに「命」「恵み」「自然」といった視点を加えることで、行為としての“刹那的な矛盾”だけでは終わらない意味が出てきます。
例えば、儀式によって従業員・関係者が「ただ売るだけ」ではなく「責任をもって扱う」きっかけを得ることもあります。つまり、供養が“倫理的なリマインダー”として機能している場合もあるわけです。
実例:あるカニ料理店の取り組み
あるカニ料理専門店グループでは、全国13店舗で年間およそ16万匹のカニを使用。漁の解禁前後に寺にて「かに供養」を実施し、従業員らが焼香して参加しています。([参照]({“url”:”https://www.nagoyatv.com/news/?id=032681″}))
このような実例を見ると、供養は「ただやっておけば良いもの」ではなく、企業・店舗が一丸となって“感謝と覚悟”を共有する機会とも読み取れます。
考える:罪悪感と偽善、どちらに捉えるべきか?
「獲って食って儲けて、今さら供養って…」という率直な指摘は、倫理的な反省を促します。ただ、「罪悪感に押しつぶされる」かたちではなく、むしろ「尊重」「覚悟」「持続可能性」の観点から捉え直すことができます。
また、偽善と批判されるかどうかは、行為の「意図」「継続性」「反省の態度」によって変わります。ただ儀式を行うだけではなく、例えば漁獲量や廃棄削減、環境への配慮などが伴っていれば、より〈表面的な儀式〉を超える実践になり得るでしょう。
まとめ
「かに供養」という行為は、商売繁盛を祈願するビジネス的側面と、命・自然・恵みに対する感謝という倫理的側面が交差する場です。一見矛盾に見える「獲る・売る・供養」という流れも、日本文化における“命を頂く”構造や、企業・店舗が自らの行為を振り返る機会として理解することで、単なる偽善とは異なる複雑な意味が浮かび上がります。
もし機会があれば、儀式を行う側のコメントや、漁業・流通・環境の視点からも調べることで、より深い理解につながるでしょう。

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